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くるまたしい-司馬遼太郎、プリンス殿下PRINCE、日本を憂う 夏草の賦(下)

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夏草の賦(下)

夏草の賦 [新装版] 下 (文春文庫)夏草の賦 [新装版] 下 (文春文庫)
(2005/09/02)
司馬 遼太郎



いまさらながら、長宗我部家ってどうなるのか?最後には・・・

あらすじはこちら
石谷光政から報告を聞いた信長は元親の返答を笑い、三好笑巌に四国征伐の先鋒を命じる。
四国征伐は当然自分にと思っていた光秀だったが、信長側の武将は、織田信孝と丹羽長秀だった。
三好笑巌に阿波の武将は旧主に寝返りだす。
時に天正10年盛夏、家康の接待後信長は今日に入り本能寺に泊まる。丹波亀山城を出発した光秀は秀吉のいる備中への途中、桂から進路を変え本能寺へ。その瞬間元親の運命は変わる。
阿波は動揺するが、一子弥三郎信親は焦る中、元親は動かない。
三好笑巌は急ぎ秀吉の元へ向かい、援軍を乞うが、淡路洲本城主・仙石権兵衛秀久に警戒させるだけだった。三好笑巌は秀吉のそばを離れない。
十分に準備した元親は弥三郎元親と共に阿波に進撃する。
勝端城をなんとか落とした元親は、阿波を平定し讃岐に攻め入る。
その間天下は動いている。秀吉に対し、家康・信雄同盟軍からの密使に元親は快諾するが、兵を動かさない。
弥三郎元親は焦るが、やはり元親は動かない。
秀吉は次々に信長の相続者達を倒し、ついに家康と和睦する。
紀州を降伏させ、次は四国である。8万の兵で四国を攻めるとの風説を聞いた谷忠兵衛は使いとして上方にのぼり秀吉に拝謁するが、すべてが黄金に輝くその凄さにのまれ退出する。

元親は死を決し、天正13年6月16日羽柴秀長とオイの秀次が率いる6万、毛利4万、備前岡山の宇喜多2.3万の兵が四国に上陸する。
次々と長宗我部軍の城が落ちていく中、谷忠兵衛率いる阿波一ノ宮城はなかなか落ちない。秀吉が叱咤する中、秀長は降伏を進める。
長宗我部軍の中でも谷忠兵衛以下幕僚すべてが和平論となっており、元親も従い土佐へ帰る。
その後、2度上方の秀吉に拝謁した元親は秀吉に心から降伏する。

天正14年6月かつて阿波を攻めた際、勝端城で頑固に防戦した鬼河一”十河阿波守存保”と共に九州の先鋒を命ぜられ、主将も元親とは合わない仙石権兵衛を指名される。元親不満の中、急ぎ3千の兵の動員準備を進める。
同12月別府湾に上陸し、秀吉から本軍が到着するまで動かないよう指示があったにもかかわらず、島津に対し功を焦る仙石は元親の反対を聞かず兵を動かす。
戸次川の戦い”と呼ばれる戦いにより、信親は戦死し、元親は生き延びてしまう。その翌月妻奈々の死を九州で聞く。

その後、元親は愚人となり、後継ぎは残り3人の末子(奈々との子)である千熊丸(のちの盛親)を相続者とする。
朝鮮ノ陣にも参加した元親は、秀吉の死を見越し、家康に接近する大名たちの動きに無関心で、嫡子盛親・老臣になにも支持しなかった。
慶長4年5月19日61歳で元親は死に、翌年関が原ノ役で石田三成側についた盛親は敗亡、その後大阪夏の陣の結果、長宗我部家はあとかたも無くなり、歴史から消える。
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テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

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